claudio baglioni バイオグラフィー ① |

クラウディオ・バリオーニの幼年期から
2010年までのプロフィールをご紹介します。
ウィキペディアのドイツ語版をベースに、補足しました。
実はこのドイツ語版、ウィキペディアイタリア語版の
2007年頃の孫引きなのですが、記述の誤りを
そのまま引用してしまい、訂正されていない部分が
あります。
現在のイタリア語版のウィキペディアではすでに
加筆訂正されていますが、この記事でも可能な限り
修正しました。また、日付が分かる出来事については
極力記載しました。



幼年期と少年時代

Claudio Enrico Paolo Baglioni(1951年5月16日)は
父リッカルド・バリオーニと母シルヴィア・サレッピコの
一人息子として、ローマのモンテサクロの病院で誕生、
チェントチェッレ地区で成長する。
幼少の頃、夏のバカンス時期には両親の出身地である
ウンブリア地方で過ごす。
1964年、13歳の時地元の歌唱コンクールに、ポール・アンカの
Ogni volta(この年のサンレモ音楽祭の参加曲)で参加。
彼の音楽のキャリアがスタートする。
翌年にもジーン・ピットニーがカバーしたイヴァ・ザニッキの
I tuoi anni piu`belli / It hurts to be in loveで参加、
入賞する。

1965年、音楽コンクールLudi Canoriでデュエット曲、
Siamo due poveri ragazzi を歌い、優勝。
おじから贈られたギターでファブリツィオ・デ・アンドレ
の歌を好んで演奏する少年時代は、高校で測量技術
を履修、暗色のハイネックセーターに黒縁のメガネという
インテリ風の外見のため、Agoniaアゴニーア(性格の暗い奴)
というあだ名を同級生からつけられる。
アルゼンチン人の音楽家ニコラス・アマートにピアノの
指導を受ける。
この頃Studio10と命名した音楽劇団を結成するが、
大きな活動の結果を得ることはなかった。

1967年、エドガー・アラン・ポーの小説に触発
された、初めての歌Annabel Leeを作曲。
同年、アリッチャで行われたリタ・パヴォーネと
テディ・レノが主催する新人発掘コンクール
Festival degli sconosciutiで、準決勝まで
勝ち進む。

1968年、ピッポ・バウドが司会進行を務めた
音楽コンクールFuori la voceに参加。
同年、リコルディ・レコード社のミラノの
オーディションに臨むが、成果はなかった。
バリオーニは2003年5月21日のレプブリカ紙
のインタビューで、このオーディションの失敗を
機に「絶対大物になる」と固い決心をしたと
語っている。

1969年10月26日、RCAと最初のレコード契約
を結ぶ。未成年だったため、父リッカルドが
契約書に署名。
レコード会社のアーティスト契約部長ゼッペーニョが
「どうせこいつは大物にはなれない」とコメントした
との逸話が残っている。

関係資料
http://it.wikipedia.org/wiki/Claudio_Baglioni


画像


記事執筆:Letterina
CLAUDIO BAGLIONI NIPPON/クラウディオ・バリオーニ・ニッポン